うぱさまさんインタビュー【中編】:死の恐怖が迫るなかでの「決定的な体験」とは

前回の記事は、受験の失敗から失恋、そして仏教に出会うまでのお話を伺いました。

今回は仏教に出会った後、どのような実践を送ってきたのかをお聞きます。

〈聞き手=道宣〉

大学~大学院時代

ここまで、19歳とは思えない濃い人生ですね…

しかし、仏教にのめり込んだ状態だと学業に身が入らない気もしますが、大学時代はどうでしたか?

身は全く入らないですね(笑)

大学時代は仏教の行学(実践と理論)が8割、数学が2割でした。

大学ではサークルにも入らず、女性と付き合ったりすることもなく、仏教の瞑想をしたり、経典を読んだり、アビダンマやパーリ語の勉強をしてました。

これまでとはまったく違う生活ですね!

はい(笑)

大学へはほとんどいかずに最低限の単位だけ取りました。

あれ、でも大学院にも行かれてますよね?

これまでの流れだと卒業後すぐにテーラワーダ仏教で出家するのかと思うのですが。

実際に大学3-4年の頃はその可能性は大いにありました。

ただ当時はマハーカルナー先生のところに行ってたんですよね。

大学院に進んだのは、マハーカルナー先生が「出家は、準備を完全に整えてからするもの」という方針だったのもあります。

やり残したことがない状態での出家が望ましいと。

実際にミャンマーにいって出家したはいいけど、失敗した人が多くいるのも聞いていました。

そして彼らは帰国して仏教から離れてしまうことが多いんです。

個人の選択とはいえ、さみしいですね…

自分自身の準備を整えていない状態でミャンマーにいってもおそらく失敗するだろうなと思ったんですね。

この点が出家するのに踏ん切りがつかなかったところではあります。

さらに、パーラージカ疑惑事件があって、マハーカルナー法友会が解散してしまったんです。

あの事件で僕は非常に大きなショックを受けたんですよ。元々はマハーカルナー先生のところで修行するつもりだったのですが、それができなくなってしまったんです。

事件の真実はどうであれ、修行できる環境がなくなったのはショックでした。

※パーラージカ:波羅夷罪(はらいざい)。仏教の出家者(比丘・比丘尼)に課される戒律(具足戒)の内、僧団永久追放に値する最重罪の総称。

今の彼女さんには束縛していないそうです。

これがきっかけで、テーラワーダ仏教ですぐに出家するよりも、在家として生きていくことになるかもしれないと思ったんです。

それまでは完全に出家するか、もしくは数学者になるか、どっちかしかないと考えていたんですが、他にも選択肢がもっとあるんじゃないかと考えるようになりました。

マハーカルナー先生の事件がきっかけで、在家として修行する道が選択肢に入ったとおっしゃっていましたが、具体的にどのような変化がありましたか?

比丘出家して、律をちゃんと守ろうとすると、原則的には比丘が比丘として修行して生きていける環境の整った海外の仏教国にしか住めなくなると考えました。

ただ、もしマハーカルナー先生が日本でサンガを作ってやってくれていたら、日本でもテーラワーダの比丘として暮らすことができる環境がある程度は整うわけです。

サンガの問題ですね。

たしかに日本で伝統的なサンガを維持するのは非常に難しいと思います。

そうなると、一生ミャンマーにいなければならない。

ビザの問題もあり、それがそもそも可能であるのかも不透明な中、果たしてそれは本当に僕のやりたいことなのだろうか、と感じました。

一生海外の仏教国にいるのは、ご自身のやりたいこととはイメージが違ったと。

両親には暖かく育ててもらったので、いずれは親の介護でもしながら日本で活動したいという気持ちもあったんですね。

当時の気持ちとしては、マハーカルナー先生の事件で、テーラワーダ比丘を安定的に受け入れてくれる土壌が日本になくなったと感じたんです。

現在でもなかなか難しいと思います。

他にも、テーラワーダ仏教で在家のまま修行されて、うまくいっている人がいたというのもあります。

自分自身も5年間仏教の行学に費やしてきて、これまでの自分とは違うという感触もあったので、出家というスタイルにこだわらずに、仏教から学んだことを生かして、在家として生きていくのもありなのかな、と思うようになりました。

ミャンマーでの一時出家

とてもリアルな事情ですね。
ありがとうございます。

その後、大学院をやめてミャンマーで一時出家されたとのことですが、そこに至るお話をきけたらと思います。

一つには修行が進んでいるという実感があったのと、もう一つは「渇き」ともつながってくるんですけど、幼いときからあった死の恐怖がまた出てくるようになったことです。

「渇き」と死の恐怖ですか

僕にとって「渇き」と死の恐怖は非常に密接で、両者はコインの表と裏みたいな感じです。

これまではゆっくり修行していこうと思っていたんですけど、明日生きているかもわからないのに、長いライフプランを立てて、出来るときに修行すればいいやという態度は、果たしてゴータマ・ブッダはどう思うだろうか。

経典には在家の生活は捨てて、すぐ出家しろと書いてありますし。

確かに出家、在家の基本線はそこにありますよね。

現在の会社への入社も決まっていたので、大学院の卒業を待つよりも、今やめて修行したほうがいいんじゃないかと思ったんですね。

そのときは切迫した思いがあって、大学院にいる意味を感じなくなってしまったんです。

修士号というお飾りをもらうよりも、残り数ヶ月をすべて瞑想に費やしたほうが後の人生のためになるんじゃないか、と。

私たちが出会ったのもこの時期でしたね。あの頃のうぱさまさんは尖ってましたよ!

そんな感じだったので、大学院の指導教員には「出家するのでやめます」と言いました(笑)

あと、両親の説得ですが、大学院をやめたいといったら大反対されまして。

それは想像できます(笑)

そのときたまたま、父の友人と食事する機会があったんです。

そこで父が「息子が出家すると言って困ってる」という話をしたら、父の友人が僕を擁護してくれたんです。

第三者からもサポートがあったんですね。

はい。それで両親も納得して、出家することが可能になったという形ですね。

どこにどのくらい行かれたんですか?

ミャンマーのメイミョー(ピン・ウー・ルウィン)です。期間は2019の冬の約2ヶ月間でした。

メイミョーはミャンマーなのに朝は4℃とかになるんですよ。
すごい寒かったです。

本当は半年間いる予定だったんですが、トラブルもあってファーストビザの70日の滞在となってしまいました。

そこでの修行生活はどうでしたか?

テーラワーダ仏教を肌身で感じました。

それまでは、日本ナイズされたテーラワーダ仏教だけしか触れていなくて、仏教の息づかいを肌身で感じることはなかったんですよね。

ミャンマーの高名なサヤドーが日本にいらっしゃった時に、在日ミャンマー人のための瞑想会などには参加したことがあったんですが、
現地の僧院という特別な空間の中で、サヤドーやサヤレー、比丘や修行者がたくさんいて、それを在家の方々が恭しく支えてくださっている環境ですね。

その特別な息づかいを感じることができて、非常に感動しました。

※サヤドー/サヤレー:ミャンマーの上座部仏教における敬称。サヤドーは男性、サヤレーは女性に向けられるもの。

それは現地でしか感じられないことですね。

具体的に印象に残っていることはありますか?

仏像や比丘に対する在家の方々の対応ですね。

例えば、雨が降ってきた時に、比丘(実際はこれは私なので沙弥なのですが、恰好は同じなので向こうからは比丘に見えている)に対して、在家の人が自分の傘を差し出して瞑想ホールまで連れて行ってくれたことがありました。

在家の方は自分が濡れることは全然気にしていなくて、何よりその様子が幸せそうでした。

そういったことは日本じゃ全然考えられないですね。

確かに現代の日本だと経験するのは難しいかもしれませんね。

あと、仏像に対する畏敬の念みたいなのは半端じゃなかったです。

仏像はこういうふうに扱ってはいけないとか、いわゆる宗教的なことですよね。

ただ理知的なものとしての仏教じゃなくて、宗教としての仏教の深さを肌身で感じることができました。

ミャンマーではみんなが徳を積むということが当たり前の環境になっているんです。

布施とかもそうですね。
比丘に対して布施をする人がいて、比丘がその人に対して「幸せであるように」とパーリを念じて去っていく、そんな様子が日常にあるんですよ。

それが一番感銘を受けたことかもしれないです。

瞑想修行の面では日本にいたときよりも進んだ感覚はありましたか?

そうですね。
実際に進んだとは思います。

ただミャンマーに行ってよかったのは(伝統的な修行で得られる体験とは)違う体験をしたことなんです。

それはどんな体験ですか? 
言える範囲で構わないので・・・

実は、死んでもおかしくない感染症(狂犬病)に罹患した疑いがあったんです。

結果的には問題なかったんですが、人生で初めてのことだったので、心が乱れてしまって…

海外生活での注意喚起でよく聞きますが、実際にあるんですね。

しかし、そのような状況だと修行にも影響がでそうですが。

そうなんですよ。

心が乱れて、もう修行どころじゃなくなってしまったんです。
でも一方で、今こそ修行する時だ、とも思ったんです。

本当に死ぬときもこんなふうに死ぬんだろうなと。どれだけ生きてきたかは記憶に過ぎないですし、たとえ生き延びて、いずれ死ぬときが来ても、自分がいるのは「ここ」しかない。

「ここ」から逃げることができないなら、今瞑想するしかないと決めたんです。

それでより一層瞑想に打ち込みました。

死をリアルに感じるからこそ、より真剣に瞑想すると。

禅の世界では死ぬ気で坐ることの重要性を説かれると思いますが、本当にそういう環境に置かれてしまったという感じですね。

その後の瞑想はどのような変化があったのでしょうか?

僕が指導されていたのはアーナパーナサティでジャーナ(禅定)を目指すサマタ瞑想だったのですが、死の恐怖が常に出てくる状態で行うのは結構厳しかったです。

常に苦しみや恐怖の対象が現れてくるので…

だから、呼吸への気づきはベースとしつつも、それらにも一つ一つ丁寧に気づかざるを得なくなりました。

起きている間はずっと恐怖に気づき続けるようなそんな状態かもしれません。


※アーナパーナサティ:呼吸に気づく瞑想
※サマタ瞑想:一つの対象に意識を集中させる瞑想法

それは指導されていた方法とは違うものだったんですか?

そうですね。
僕がいた僧院の指導とは実質的に違う修行をすることになってしまったと思います。

そうしないと正気を保っていられないので、なかばシフトせざるを得なかったというか。

正気を保っていられない・・・

基本的に思考が暴走しているんです。

「ああすればよかったんじゃないか」「こうすればよかったんじゃないか」「実はこうなんじゃないか」といった思考が常にぐるぐる回るわけです。

なるほど…

それを続けていたら、いろいろな思いに一つ一つ気づくのに疲れてしまったんです。

もうどうしようもないなと。
そして全部諦めて放り投げました。

そこから先はあまり覚えてないんですけど、ある時完全に恐怖が剥離したんです。

恐怖が剥離したとはどのような体験ですか?

例えるなら、暗闇の中でろうそくが灯っていて、これまではその炎だけに気づいている状態でした。
ここで炎は恐怖のメタファーです。

ただある時、「パッ」と部屋の電気がついて、静謐な空間の中に炎があったことに気づいたんです。
そして「最初からここにいた」「初めから無我だった」と思いました。

これは今までといる場所や恐怖の存在は変わらないんですよね。
ただ部屋の明かりがついただけなんですよ。

別の言い方をすれば、スクリーンとその上に映っている映像の違いをはっきり自覚するような体験と言っても良いです。

表現の違いはとにかく、うまく言えませんがそんな感覚です。

今まで「私」だと思っていたものは すべて「私」ではなかったと直感的に深く納得するような体験でした。

ただ体験そのものは恐怖と共にすぐに消えてしまいました。

部屋の空間やスクリーンそのものに気づくことが一瞬あって、それから部屋の電気はまた消えるんですけど、その体験の残滓、残り香みたいなものは残ってるんですよね。

それは自分にとっては衝撃的でしたが、僧院で教わっているようなジャーナ(禅定)とは関係のないことだと判断したので、先生には特に報告はしませんでした。

うぱさまさんの中で、その体験はどのような位置づけになったんでしょうか?

その時はいい体験したな、と一旦ペンディング(保留)しました。

当時の修行の目的とは違ったので、この体験はオマケ程度に考えていました。

むしろ日本に帰ってきてから、決定的な体験だったなと思うようになりました。

体験した当時よりも帰国した今のほうが体験の価値が高いと。

当時は「いい体験だった」程度だったものが、後に自分の中で「決定的な体験」にシフトしていくんです。

自分の中でも解釈作業が進んでいるのを感じます。

というのも自分が経験した中で拠り所になるものを探すと、その体験だけなんですよね。底しれぬ安心感とか。

ですから、その体験を捨ててまでジャーナを目指す方向にいくのはどうなんだろうな、というのが今の立ち位置の一つではあります。

あくまで僕にとってですが。

一般的に、仏教で「悟り」といわれるものには、体験をした瞬間にすべてがわかるという話が多いですが、うぱさまさんの場合はその体験を後々振り返ってみて、解釈することによって、重要な体験になっていったと。

そうですね。
もちろん当時もすごい体験ではあったんですよ。

「何だったんだ今のは!」みたいな。

その後に見た星空もすごく綺麗で感動したんですけど、すべてが解決したとは到底思わなかったですし、その後も恐怖は存在します。

ミャンマーにいた頃、僕が解決したかったのは、恐怖自体を根絶することだったので、方向性が全然違ったんですね。

つまり当時そんなにクリティカルなものではなかったものが、今となってみればクリティカルなものになったということです。

↓次回↓